2018年3月に観た映画(その1)



リハビリがてら、印象に残った映画の感想を。とりあえずパッと出てくる分だけ。
毎度のことながらネタバレという概念がうまく理解できないので、たぶんしていると思います。


僕の名前はズッキーニ / 不能犯 / 15時17分、パリ行き /
シェイプ・オブ・ウォーター / 聖なる鹿殺し / ゆれる人魚 /




【僕の名前はズッキーニ】
スキー場で「おかあさん」(愛してくれるひと)を求めるシーンで、これがアニメーションでなければならなかった理由を噛み締める。顔の半分以上を占める目。どこかモンスターじみて、浅ましさと恐怖の印象さえ与えるこの目が必要だったのだろう。
わたしはこどもが苦手なのだけど、それは何故かというと、ほぼ同じ人間なのに、彼らはとても弱く、いろんなつらさに対処する術を知らない。そういう人たちと触れあって傷つけるのが恐ろしいから。
でもこの映画を観ると、恐れるのではなく対等に楽しもうよ、というとてつもなく温かいメッセージを受け取るのと同時に、大人が大人であるためには、気取るのではなく裸になることだよと言われた気がした。


不能犯
予告篇を観たときは白石晃士の刻印がオミットされているんじゃないかと心配していたんだけど、そんな心配は無用、というか消そうとしてできるものではなかった……。
松坂桃李と間宮祥太郎がとても良かった。良かっただけに、逆に変な役者が出てくるたびに気になって仕方ないというか、色々あるんだろうけど下手な役者を出さなきゃいけないのって相当つらいだろうなという印象が強く残ってしまったのは残念だったけれど。
しかし悪意を悪意のまま、クライマックスにきちんとクライマックスを持ってくる、見せるべきは何がなんでも見せる、ここは譲らないぞという展開に爽やかな気持ちになった。
これが受け入れられれば、きっと次はもっと強烈なをメジャーの舞台で見せられるようになる。そういう希望があった。


15時17分、パリ行き
他人の人生に身を委ねる心地よさを初めて知ったような、不思議な感覚に陥る。
こんなことが本当にあるなら(もちろん本当にあったわけだけど)、神はいるのだろうと本気で思わされそうな作劇に「???」を飛ばしつつ。脚本があり、情報の取捨選択があり、カメラワークがあり、確かに映画なのに、自分が何を見ていたのかがいまいち掴めない。ぼんやりしている。ただ、とても好きな映画だ。日を追うごとに、観光の風景や、スピに振り回される日常の滋味が心に染みてくる。それは間違いない。


シェイプ・オブ・ウォーター
相変わらず手癖で撮るなぁ、と思いこそすれ、それが悪い意味にならないのがデルトロの凄いところだ。
愛の物語という謳い文句に偽りはなく、愛の暴力性や排他性などの忌まわしい側面も描いている。(その辺は音楽での表現も出色だった)巻き込まれて転がった猫やMPの死体、あるいは彼らが去った後の隣人達の暮らしなどに思いを馳せればそれは明らかだ。しかし正面切っては描かず、You'll never knowと切々と歌い上げることでふんわりと包み込んだ優しさこそが、オスカーの理由な気もする。(横たわるストリックランドの身体にさえ、雨は降り注いでいたのだ。)


ちなみに、私にとってはクリムゾン・ピークがルシールの話としか見えなかったのと同様にシェイプ・オブ・ウォーターは圧倒的にストリックランドの話だった。
というのも、マイケル・シャノンがそもそも異貌の俳優で、彼の異形めいた佇まいが魚人と対を為しているのは間違いなく、彼もまた哀しきモンスターとして登場している(冒頭のジャイルズの語りで「全てを破壊しようとした怪物」というのは彼のことだ)というその作為にこそデルトロの真意があるのだろうし、間違いなくデルトロが自己を投影しているのはストリックランドだろうと私は思う。
それから、これは単なる好みなのだけど、登場人物の誰もが、自分の持つ何かしらの欠損や欠落(と社会で思われている事象)を受け入れている中、彼だけがそれを拒絶した結果、最終的には指が腐り落ちるのだが、わざわざ膿み(=血=水=愛、が腐ったもの)が吹き出るという表現をする。 その身体が傷む描写のフェティシズムに震える。
孤独の裡に愛を腐らせて苦しむ男を、あんなふうに官能的に撮るという、その倒錯が私はとても好きだ。


ただ、今回、水が愛の象徴(形を変え遍在する存在)であったり、緑が決して心から欲しているわけではないのに“良いもの”とされる未来であったりと、非常にわかりやすい比喩が満載で、いつも以上にはっきりと主張する気構えで溢れていたのがちょっとつらいというか、彼にこんなことを言わせてしまう時代クソだなという気持ちにもなったり。
何はともあれ、本当におめでとうございます、デル・トロ監督。
あなたがいてくれる世界で良かったし、そのあなたを評価してくれる世界で嬉しい。


【聖なる鹿殺し】
良い。抑制されいかにも人工的な動きをするカメラと、人間味の一切ない俳優の演技で淡々と語られる呪い。
神話を意識させるような大仰な音楽とは対照的に間抜けた台詞の数々で、どこまで本気なのかわからなくなる。
だからこそ、そこで展開されるあまりにも厳格すぎて理不尽な「因果応報」の顛末が圧倒的に胸に迫る怪作。
呪いの発端となるマーティン(バリー・コーガン)の何も映さない虚無的な青い瞳と、その呪いに巻き込まれながら自身の怪物性を開花させるキム(ラフィー・キャシディ)の暗い青い瞳が対照的で美しく、恐ろしい。


ゆれる人魚
まんま人魚姫だということすら知らずに観に行ったので、PCアップデート的な概念をほぼ考慮にいれていないことに驚いた。素晴らしい。
天然と計算の入り交じるチープさ野暮ったさも癖になるけれど、なによりもユーモア溢れるグロが素晴らしい。
この手の翻案をすると流血があってもどこか汚さ、野蛮さがオミットされてしまいがちなのだが、これはもう『武器人間』である。あっぱれ。
脚本は混乱しがちでみていて「???」「うおおい」と言いたくなることも多く、ちと長いけど、欠点を補ってあまりあるチャーミングな作品。
すき。