少女

覚え書き。

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この記事読んで不意に書きたくなった。直接の関連はない。(すげー良い記事です)
なんとなく隠す。

 「少女」が嫌いだ。
年端のいかない女性が嫌いなのではなく、概念として扱われるような、なにかしらの象徴として常に「手の届かないもの」として崇められるときの「少女」という言葉が嫌いだ。
女として生まれると、少女であらざるを得ない時期が存在する。そのとき少女と呼ばれるのは、年齢的にそうだから呼称を使用されるだけで、世の中に溢れる「少女」という存在に成る/で在るわけではない。そうした事実をはっきりと理解できるのは、もっとずっと歳を取ってからだ。あのとき「年齢的に少女」であった自分には、なぜフィクション上の偶像と同一視される暴力にたびたび晒されていたのか、自分の同類を指しているはずの文章に描かれた何かが自分とは到底似ても似つかない崇高な存在であるのかなど理解できず、なんとなく鬱陶しく、理不尽としか感じられなかった。反発したし、いろんなものを憎んだ。結果、男性や世の中などの漠然とした対象に、抱かなくていい恨みや憎しみを抱いて育った。気づけるのは、少女と呼ばれてから何年も経ってからだ。そんなふうにして育ててしまった憎しみを解きほぐしていくのには、さらに時間がかかった。
これ、「女性」をやっているほとんどの人が知ってる感覚なんじゃないか、共感をおぼえるんじゃないか。
それくらい「聖少女」幻想は女性という性別をもって生まれてきた人間を追いつめたり、自意識過剰に追いやったりする。だからもうやめろとか、そういう話をしてるんじゃない。そういうもんだ、という話。

いろんな事をぼんやりと自覚するようになった私は、仕事でなるべく「少女」の語は使わないよう努めたりしている。実際にそれがどれだけ世の役に立つかは知らない。やらずにはおれない。自分を慰撫するために。

あるいは、私がいわゆる「少女」的に憧れ、自分は手にし得ない属性だからこそ勝手に何かを投影して崇めてしまったものにふるった暴力について考えたりする。
最近はとみに増えた。歳を取ったからじゃなくて、腐女子になったからだ。
もちろん腐女子じゃなくたってやっていることではあるが、腐女子の妄想は欲望の明確な発露だから色々とわかりやすく、考えずにはいられないのだ。
はたして、世の女性たちは一体なにを祀りあげてきたんだろうか。
女性の場合、個人差が大きいような気もする。いまふと、ひとりの友人の顔が思い浮かんだ。彼女は「顔の良いクズ男」だろうなと笑った。私は、恐らく「男性社会でも浮いてる陰キャ男」だ。
世の中が「少女」にしてきたような仕打ちを、私も彼らに対してしてきたのだろう。大きな違いは妄想の強度くらいだ。(もちろん、これは大きな問題にもなる。定着したものは、それだけ強いから)

人は人を見る。それは不可避な暴力だ。この種の暴力を排除したら、人は社会を維持できない。もっと違う生き方を捻りださないといけない。そんなことする必要があるとは、私は思えない。だから勝手に想像上の生き物と同一視され勝手に比較され貶され、あるいは思い上がるなお前の事じゃねえなどと勝手に罵られ屈辱を受けた経験や、そこから生じた恨み憎みも、なくすことはできないのかもしれない。たまったもんじゃねえよ、と過去の私が唾を吐く。まあそうだよね。今の私ができることは、自分のなかにある偶像に対してふるいかねない暴力に、すこしでも意識を向けることだけだ。意味のないことかもしれない。他人に強要する気はない。
あのとき悔し泣きしてる少女はいつまでも泣いていて、守ってやれなくてごめんねと伝える術を、私はこのやり方のほかに知らないだけだ。