「私」の観た映画、を言葉にすること(『女神の見えざる手』と『ペンタゴン・ペーパーズ』)

最近ちょっとだけ気になること。
ツイッターなどで、映画の感想をつぶやくとき、「この作品は“フェミニズム(でも何でも、とにかく何らかのムーヴメント)”というよりは」的な言い回しをした途端、「それは違う」「そうやってすぐ○○(ムーヴメント名)を否定する」という批判に晒される人が増えたように思う。


まあ言いたいことは理解できる。のだが、それはそれとして、私にも個人が自分のために血を吐くような思いで歩んだ闘争の軌跡を、大きなムーヴメントに容易く回収してしまうのは、どうも違うように思えるときがある。
確かに俯瞰すれば大きな流れのひとつではあるのだろう。それは否定しない。
けれど、個人的な問題として、作品が「私にとっては」より切実で、運動の思想から零れ落ちるモノを含んでいたりする場合もある。
そういう時はやはり「○○というよりは」というフレーズになるし、その表明は何ら悪いことでも、批判されることでもないんじゃなかろうか。
すごく普通のことを言っているんだけなんだけど、本当に最近良くそうやって責められている人を見るので、どうにも解せないし、なんだかつらい。(なんであれ大量の人に詰められている光景は見るのがつらいが)


たとえば、『女神の見えざる手』の主人公(ジェシカ・チャステイン)の物の考え方や行動は、私に近い部分が多分にあった。なんだか彼女の物語は、他人事ではないように思えた。
だからあの映画は、私には、フェミニズム云々以前の、自分がこの世界において怪物として生きざるを得ないと悟った者が、そのモンスターを存分に解き放つために苦闘する物語として捉えられた。そういう意味ではレフンの『ドライヴ』に近い。
ライアン・ゴズリングは愛を言い訳としてのそりと内に棲む怪物を解き放ち、去っていったのにし、ジェシカ・チャステインは怪物を飼い慣らし暴れまわらせるために愛を排したという決定的な違いがあるが。)


あるいは『ペンタゴン・ペーパーズ』のケイ(メリル・ストリープ)。彼女の足跡は確かに女性の社会進出の先鋒であったろう。トニー(サラ・ポールソン)がある場面でケイの意図を珍しく説明台詞として話すが、あれはあの時代においては、同じ不自由を知る女性が言葉にして明確に説明しないかぎり、余程の男性でも理解できないであろうというリアリティのためだったように思う。


それでも、ケイの歩みは、まずは個人の闘争であったはずだ。
自分でもできるとは思わなかった仕事を抱え、特に疑問も抱かず“主婦”していた時期が彼女にもあり、そのとき彼女が不幸だったかと言えば、そうではなかったろう。
女たちのおしゃべりは余り得意ではなさそうな彼女は、しかしファッションの記事はそんなに嫌いではなさそうだった。“目覚める”前からも、彼女は新聞を愛していたのだから。


そんなふうに、作中のケイは、「社会進出する女性」からも、「旧来の家の女」からも、もちろん男たちからも距離を置いた存在として描かれていたように思う。
さらに、彼女は才覚ある人であった。守るべき、愛する新聞を託されたとき、彼女こそがそれを守るに相応しい能力を持っていたのだ。
彼女は使命から逃げなかった。難解で聞きなれない大量の言葉からも、経験などない会社経営からも、頭からバカにして掛かってくる男社会からも。
すべての困難から、彼女は逃げなかった。
個人として、己の使命のために、自由と平等のために、自分のできる、為さねばならぬことを考え続けた。
そして恐れずに、時には怖くて震えながら、周りの助けも借り、とにかく実行した。
その知力と勇気、気高い生き方が、多くの女性に「私もやっていくぞ」という勇気を与えたのだ。


現代に作られた、しかも“今”作られた映画だ。もちろん、当然MeTooの側面がある。
でも、それでも私には、順番が逆に思えるのだ。フェミニズムが先にあったのではない。自由と平等を希求する想いと、己の使命を全うするのだという揺るぎない決意、それを通す意地が、フェミニズムのようなムーヴメントを生んだのだ。
だから、簡単に「MeTooの映画だ」と括ってしまうことこそ、私にはどうにも違和感がある。MeTooを生んだ源の思い、源の高貴さに触れた想いがして私は泣いたのだから。
そして何より、『ペンタゴン・ペーパーズ』で私が好きなのは、ケイのように“目覚める”ことなく、それでも日々を誠実に生きてきた者たちの生き方をも称賛するまなざしだ。
「服や化粧の記事はうんざり!」と嘆く記者(女性)の傍らを通りすぎたときの、ケイのなんとも言えない表情にこそ、私は泣いた。
“目覚めて”いなかった者たちの支えがあって、“目覚めた”女も、もちろん男も、自由と平等にまた一歩近づけたのだ。
それこそが、私たちの目指すところだ。とても、とても本質的な話だ。
だからこそ、“ただ”MeTooの映画、ということに、強い抵抗を覚えた。いや、名前は何でも良いのかもしれない。名前をつけたくない、という気持ちも働く。
なぜか。
こうした長い長い文脈から放たれた「フェミニズムというより」というフレーズが、そのフレーズというだけで批判されることが増えたからだ。


その拳は、振り上げる必要があるものなのだろうか。
どうしても、そんなことを考えてしまうな、という覚え書き。