深夜にちょっとだけ心の整理をします

例の事件、いつまで経っても何か引っかかっていて、それを落ち着けるために書いています。
トヨザキ社長のツイートでだいぶ慰撫されたし*1、判っている人は判っているし、判る人には伝わったし、もうそれでいいはずなんです。
それなのに、まだずっと心に何かが刺さっていて、気持ちがささくれ立つ瞬間がやってくる。
それは何故だろう、と考え続けた結果、ある存在が目につくからだ、ということが判りました。


結局、いちばん腹が立つのは「黙らせよう」「いないことにしよう」「理解できないから無視しよう」とする人たちなんだなと。


まず、「感じ方はそれぞれあると思います、わたしは現場にいたけど傷つきませんでした。」と語る方。
そもそも、異を唱えている人の大半は「場の文脈を理解した上で」憤っているわけなんですけど…。(真魚さんなんてプロのライターさんというか、批評家さんですよ。その辺の理解は、一般人よりあると思うし…。)
そこを無視した上で、異を唱える人とはまったく対話をしない*2、言うのは「傷つけたらごめんなさい」の一点張りです。なんだいね、そりゃ。
「私傷つきました」「そうなんだ、私は傷つかなかったよ」「そうなんですか。私が傷ついたのはどこかと言うとですね」「ごめん私傷つかなかったんだ。その事実があなたを傷つけたらごめんね」
こういうことですからね。
なんだいね、そりゃ。
そして「俺だったら別に傷つかないけどね。はいおしまい」と宣った人も同じです。
あるいは「まだやってるんですね」「暇なんでしょうね」というやり取りをした人なんか、もっともっとずっと酷い。だいきらいです。
何が酷いのかピンと来ない人は、これらの発言をイジメ(判定するかどうか微妙な)現場に当てはめてみれば、その意地の悪さがわかるんじゃないかな。


この人たちこそが、私からしてみると癌なのです。
だけど、絶対にいなくならない人たちでもあるのです。
というか、下手したらそれが大半。
知っている筈の事実だったけど、目の前でそれを繰り返されるのは、やっぱりしんどいです。
しんどいし、現実の不毛さに絶望するんです。


彼らは、人の闘いを尊重せず、物笑いの種にすらする。
こうした物言いは、攻撃よりも酷い。
にも関わらず、自分たちのしていることが「人の闘いを尊重せず、物笑いの種にすらしている」ことだとは気付きません。指摘されても否定します。あるいは「繊細チンピラ」等の言葉を“都合良く”駆使し、さらなる罵倒・嘲笑におよぶことすら珍しくありません。
もしかしたら、彼らもどこかで闘っているひとたちであり、その闘いに疲れ果ててこうした反応をしてしまうのかもしれません。
もしかしたら、一生わからない鈍感なひとたちなのかもしれません。(もうしそうなら、だからこそシャチョーは「余裕をもって、哀れんでやるくらいの気概を持て」とエールを送ってくれたのです。うれしいねえ)


闘っている人を目の前にしたとき、人は何故「面倒だからやめろ」と言ってしまうのか。
人類永遠の課題、なんて言ったら大げさかも知れないけれど、本当に困った習性です。かく言う私だって例外ではなく、きっと自分から遠い(と思い込んでいる)問題・闘争が目の前で起きたら、「やめてくれないかな」と思ってしまうこと、あるんだろうと思います。ウソです。あります。ありました。


でも、今回の一件を通して、そういう反応がどれだけ愚かで醜いことか、どれだけ優しくないことかがよくわかりました。
こういうときこそ、あの曲がキいてきたりするんだけど、人の闘いを「暇なんでしょう」と片付けた瞬間、「ファイト!」の檄に涙する資格はなくなるのですね。肝に銘じます。


闘い続けてきた彼女/彼ら、そしてそれを支え続けてきてくれた彼女/彼らが、いつか報われ日が来ることを願っています。そのためにも、私も対話しようとする気持ちを失わず、無関心の意地悪さにもめげない気丈さをもてるようになりたいと思います。
かっこ悪いのは、やっぱ嫌です。だから、がんばるんです。

*1:ただ、クソ「男」と限定しないでwとは思った。クソ「女」も腐るほどおります。や、勿論言葉の綾です。言っている内容が素晴らしいのであって、言葉のチョイスはここでは問題ではないのですが。でもちょっと、傷ついちゃう人いるだろうなと思うと申し訳なくてね。

*2:勿論対話する義理も義務もないわけですけどね。でも意見の違う人を受容れていないだけに見える、ってそれどっちのことなんだろう…と思います。