『クロニクル』の一部感想に対する鬱屈(ルサンチマン)

                • -

下書き漁ったら『クロニクル』(超能力少年POVのやつ)の一部の感想に対しての呪詛みたいなのが出てきました。
我ながらかわいそうなくらい怒っているので、公開して供養してやることにします。
これで成仏しろやー。

                • -



『キャリー』には、未熟さがあった。幸せになる未来を夢見るだけの楽観があった。しかし『クロニクル』のアンドリューが抱え込んだ屈託は、力を得たことによって急速に冷えて凝っていく。そこには、過去から振り返ったときに抱く感傷を潜り込ませる余地すらない。
マットは確かに、「善意の人」ではあるのだろう。しかしだからこそ、アンドリューの掬い上げるような卑屈な視線を、気持ち悪いと罵られる危険を冒してなおカメラを用いざるを得なかった、ひりつくような寄る辺なさを、真に理解することなどないだろう。


そんな忸怩たる思いでスクリーンを見つめていた私にとって、マットは自分の映し鏡であり、それ故に彼が憎かった。だって(理不尽だしフェアではないが)マットの存在こそがアンドリューを死に追いやったとも言えるのだから。それでもマットは幸せになるだろう。彼は持てる者であり、持てる者ゆえに獲得した強さがあり、その強さが彼を救ったのだ。


この昏い気持ちを抱えたまま、私は本作を「青春映画」としてくくることをしたくない。私はこの映画の出来に異を唱えているのではない。本作を「青春」と括り、アンドリューの屈託に自己を容易く投影する一部の観客の無神経さこそが我慢ならないのだ。
『デッドガール』で感じたことでもあった。死してなお犯され続ける少女の叫びを、「青春」などと括られたのではたまったものではない。『隣の家の少女』でゴミのように殺されたメグの死を、どうやって若かりし頃の一ページとして綴じてしまうことができるだろう。


だからこそ、『クロニクル』のラストシーンで、過去を総括しカメラを置き去りにし、自分の(自分だけの)光り輝く未来へ飛翔したマットが、自分にだぶると同時に憎くてたまらないのだ。本当のことを言えば、きっとマットにとってアンドリューは「友だち」などではなかったはずなのに。「好きだった」と思えるのは、アンドリューが死んで思い出になったからだ。二度と自分に迷惑もかけず、自分をみじめにすることもなくなったからだ。毎日一緒に学校に通いながら、自分の車を運転し、哲学をふかし、傍らで鬱屈し追い詰められていくアンドリューを放置していたマットが、マットだけが生き残った。この世界はそうできている。


何度でも言う。これは、「青春映画」などではない。もっと理不尽で残酷な現実を描いた物語だ。
これを「青春」と括ってしまえるお前に言いたい。
お前は、アンドリューの魂の咆哮に、同調する資格などない。
アンドリューが目覚めた<けだもの>の域に、お前は到達など絶対にできない。
彼はおぞましい場所へ、自ら好んで行ったのだ。己の弱さに屈し、捕食者になる道を選択し暴走したのだ。
同じ場所まで堕ちるとはいかなることなのか、それを自覚すらできない者が、安易に自分とアンドリューを重ねるな。
お前は、アンドリューなどではない。いつでも逃げ込める場所を持った、弱者ぶった富める者・マットだ。
せめて彼の絶望を、矮小化したり、わかったことにして過去にしてしまわないでくれ。

アンドリューは今でも地獄で吼えている。
お前は、かわいそうなんかじゃないんだよ、この甘ったれのクソ野郎、と。